全盲の大学野球部監督・本田修平氏の記録
日本海新聞・大阪日日新聞にて連載(6回) 2009.7
朝 西 知 徳



一.障害を乗り越えて

 かつてメジャーリーグにおいて、右腕に障害をもつジム・アボット選手の活躍が話題になったことがある。一方、日本のアマチュア野球界でも、あまり注目を集めることのない地方大学において、障害をもちながら監督の責務を全うした野球人が存在する。

 私は学生のとき、旭川大学硬式野球部に所属(1984年4月〜88年3月)していたが、当時の監督・本田修平氏は全盲であった。

 1937年に北海道夕張市で生まれた本田修平監督(現在71歳、療養中)は、夕張北高校を卒業後、毎日オリオンズにテスト入団。その後、社会人チームの北炭夕張・北炭平和(三番打者・投手)を経て、東京のプリンス自動車で選手兼監督、日産サニー札幌で監督を歴任したのち、1978年8月に旭川大学の監督に就任した。就任直後に持病の悪化により失明するという不運に見舞われながらも、1986年10月まで、足かけ9年にわたり監督を勤め上げた。

「私がノンプロで教えていたときは、部員全員を寮に入れて、24時間の監視体制で鍛えた」と本田監督が述懐しているように、日産サニー札幌の監督時代は、選手が社会人であるにもかかわらず、合宿所の門限時間の厳守、清掃の徹底など、厳しい生活指導を行っていたという。その結果、発足したばかりのチームを、都市対抗予選の道内決勝へ三年連続出場させるまでに育て上げた。

 その手腕を買われて旭川大学から監督就任を打診されたときには、すでに視力障害を生じさせていたが、「それでも、いい」「新しく専用球場をつくり、チームの強化に全力を尽くす」という学校側の姿勢と、「本田監督と一緒に野球をしたい」という選手の熱意に背中を押されて、監督の要請を受諾することとなった。

 当時の北海道地区大学野球連盟は、一部から四部まで各6校ずつで組織されており(現在は札幌学生野球連盟と北海道学生野球連盟に分岐)、その中で旭川大学は二部に停滞していたため、大学側は本田監督の人間性と野球理論の高さを信じ、一部復帰を託したのである。

 のちに本田監督は、失明の現実に立ち向かうこととなるが、野球場のベンチに座ると闇の暗さからくる不安も消え、聴覚・嗅覚・触覚に神経を集中させて「心眼」を研ぎすますと、選手の動きをとらえることが可能となり、監督の責務を果たすべく決意が生まれたという。

 当時、本田監督の存在は、全盲の大学野球部監督という特異さから、新聞・雑誌・テレビなどに取り上げられ、本田監督の指揮する野球は「心眼野球」と称されて、人々から多くの関心を集めた。

二.目指したもの

 本田監督の目指した野球は、試合の勝敗そのものではなく、野球を通じた人間形成の追求である。つまり、野球選手を育てるのではなく、人間を育てるという精神がその根幹にあった。したがって、時間の厳守、挨拶の徹底、マナーの遵守、喫煙の禁止など、生活指導にも大いに力を注いだのである。

「私の目が見えないからと思って、嘘をついてもすぐわかりますよ。追及していくと、前の嘘を繕おうとしてさらに嘘を重ねます。矛盾をどこまでも押し通せるものではありません。子どもたちが私の見えないのをいいことに、手抜きをしたり、指示を無視することは、結局は自分の将来にとってマイナスだと知らなくてはならない。損をするのは私ではなく、自分なんですから。そのことをよく言って聞かせるんです」。

監督就任後は、札幌に住む家族と離れ、単身で旭川へ飛んだ。ひとり暮らしの寂しさなどは、野球に携われる喜びが吹き飛ばしてくれたという。本田監督の住まいは、選手の住む合宿所に取り囲まれるように位置しており、私は3年生のときに、監督のサポートをさせていただいた。

 「失礼します。おはようございます。野球部3年の朝西ですが、新聞を読みにまいりました」。朝起きると新聞を手に本田監督の部屋を訪れニュースを読み、それを終えると、監督に肩をお貸しして、約300メートル離れた大学の事務室へ監督を案内した。

 「肩をつかむと、その子どもの練習の成果がわかるんです。どれだけ体ができてきたかね。それに歩きながら話し合いますから、子どもの性格・特徴、いま悩んでいるかどうか、いろいろなことがわかりますよ」。私にとってはこの登校が、本田監督との大切なふれあいの場となっていた。

練習中、本田監督はグラウンドのベンチに腰を下ろし、腕組みをしながら選手の動きをじっと追った。打撃練習の際には、各人が「朝西、バッティング2セット目入ります」というふうに声を出してから打席に入るように決められており、守備練習でも「朝西、サードに入ります」などと宣言してからポジションにつき、悪送球を放った場合には即時にその球を拾いに走り、監督の前に足を運んで「朝西、悪送球を放りました」と報告することが義務づけられていた。

「練習では、部員間の差別は一切しません。先輩がバッティングを20本やったら、後輩にも20本やらせます。ノックを20本やるときには、新入生にも同じだけします」。選手全員に対してできるだけ均等な練習機会を与えることが、本田監督の基本的な指導方針の一つであった。

三.心の眼で見る野球

「打球は、バットの振りとボールの当たる音でフライかゴロかわかりますよ。投球もね、ボールの風を切る音でストレート、シュート、カーブ、伸びているかどうか、みんなわかるんです。音が違うんですよ」と本田監督は話している。

 選手のコンディションは、話し方、息づかい、体のにおい、足音、打球音や捕球音を手がかりに把握したという。ある日、私がグラウンドの整備用具を取りにベンチ前を走っていると、「今おれの前を走って行ったのは朝西だろ」と本田監督は笑いながら聞いてきた。実は本田監督の目は見えており、選手の本性を見抜くためにそうしているのではないかと疑いたくなるほどに、本田監督の「心眼」は鋭かったのである。

 本田監督は試合中、2人の選手を両脇に座らせた。そのうちの1人はグラウンドで繰り広げられるプレーの模様を逐一に説明する「アナウンサー」であり、もう1人は対戦する相手チームの特徴を綿密に調べあげる「スコアラー」であった。ベンチに座る本田監督は絶えず、「目」の役割となる2人の選手から話を聞き、様々な局面を思い浮かべながら、攻撃のサインから選手交代まで指示を出した。

 「打者はバントのうまい子だったな。よし、スクイズだ」。目が見えても見えなくても「野球は方程式」。監督は選手一人ひとりを把握し、局面に応じて戦法を選択するだけというのが本田監督の考え方で、目が悪くなってからのほうが、かえって冷静にサインを出せるようになったという。また、見えていたときより勘もさえ、「今日はこいつが打つぞ」とピーンときたり、「このチャンスには、こいつを使おう」と出した選手がヒットを飛ばすといったことが多くなったそうだ。

 私は1,2年生のときに、試合の実況中継を行う「アナウンサー」を務めている。「ピッチャー投げました。バッター打ちました。ショートゴロです。ショート捕って一塁へ送球、アウトです。打った球は外角低めのカーブです」。あるいは「ピッチャー投げました。バッター打ちました。打球は左中間を抜きました。バッターランナーは一塁を蹴って二塁へ向かっています。二塁ランナーいまホームインです。バッターランナーは二塁をまわりました。打球はセンターが拾ってショートへ送球、ショートは三塁へ送球しました。バッターランナー滑りこんでサードがタッチ、セーフです。打った球は内角高めのストレートです」という具合である。

 加えて、本田監督が打者および走者へサインを出すときには、すべての選手が監督へ視線を集めた瞬間に「どうぞ」と合図を送り、さらには、監督から選手交代に関する個人的な見解を求められることもあった。


四.厳しさと優しさ

入学して間もないころの練習試合で、スタメンに起用されたことがあった。ところが、初回にタイムリーエラー。初めての打席では、初球のボール球に空振り。そこでタイムがかかり、ベンチに引っ込められた。試合後、本田監督に「肩を貸してくれ」と頼まれ、2人だけでゆっくりと歩いた。打ちひしがれる私に、監督は叱ることも慰めることもしなかった。ただ静かに、私の肩に手をあてているだけだった。

2年生の暑い夏の日、練習を終えた私たちは、一目散に水を飲みに走った。本田監督が球場を去るときにも、水をがぶがぶと飲んでいた。「いま挨拶をしなかった者は誰だ」。監督は誰の肩も借りずに、ひとりで私たちの前に歩み寄ってきた。私たち数人が、監督にきつく叱られた。私は監督の懸命な姿に、胸がしめつけられた。のちに大学を卒業して、指導される立場から、する立場になったとき、選手を叱ったあとには、大きな悲しみが襲ってくることを知った。今の私には、あのときの監督の気持ちがとてもよくわかる。監督は、あの日の帰り道、涙にくれていたのかもしれない。選手を叱った帰り道、私はそんなことを考えていた。

リーグ戦の大一番。3年生になった私は、決勝の走者として二塁に立っていた。打球が三遊間を抜いた。コーチャーがぐるぐると手を回すなか、必死になって本塁へ向かった。本田監督のために夢中で走った。クロスプレーだった。叫びながら、頭から飛び込んだ。次の瞬間、球審の両手が左右に広がった。歓喜の中、私は目を真っ赤にしながら、監督のもとへ走っていった。

リーグ戦が終わったあと、「休みをいただきたい」と、みんなで本田監督に提案したことがあった。「勝ったから練習を休みにするとか、負けたから練習を休みにするべきだとか、おれは、そんな中途半端な野球は教えていない」。監督はそう激怒していた。自分たちの甘さを見抜かれたようで、とても恥ずかしい気持ちになった。

私たちのチームは、一部から四部まであるリーグの、はじめは一部に昇格していたが、リーグで最下位となり、入れ替え戦にも敗れ、二部落ちという苦い経験を味わった。入れ替え戦に負けたあと、ロッカールームの片隅で監督が泣いているのを見てしまった。衝撃的だった。次の日、私たちは練習をした。監督はグラウンドのベンチにすわり、いつものように指揮を執っていた。

「おれは、中途半端な野球は教えていない」。その言葉の真意が分かるようになったのは、大学を卒業してからである。今でも、ふとしたときに監督のその言葉を思い出す。同時にそのときの恥ずかしい気持ちも思い返すこととなり、青春時代の己の未熟さを省みるのである。

五.正義と忍耐

ある日、ひとりの選手が合宿所から逃げ出した。学生だった私の目から見ても、彼の傍若無人ぶりは目にあまった。ところが、その父親が本田監督に文句を言ってきたらしい。監督は反論を一切しなかった。毅然とした態度で、その誤解にひたすら耐えていた。はたして、その選手と父親は、いったい監督の何を知っていたというのだろうか。肩に触れられたときの手が、とても温かいことを知っていたというのか。子犬を拾い上げたときの優しい瞳を知っていたというのか。敗戦のあとに、ロッカールームで流した熱い涙を知っていたというのか。高校野球部の監督も、無責任な中傷を受けることがある。すると決まって、武士のように耐え忍んでいた監督の背中を思い出す。

私は、本田監督から「時間は命がけで守れ」と教わった。ある日、監督を駅へ迎えに行くことになった。ところが、先輩の運転する車が、交通渋滞に巻き込まれ、駅への到着が遅れてしまった。どんな怒声をも浴びる覚悟で、私は駅にのぼる階段を必死に走った。ホームの隅のベンチに独り監督はいた。「すみません」。汗がだらだらと流れた。沈黙のあと、監督が静かに口を開いた。「どうしたんだ」。その目が潤んでいるように、私には見えた。自分の顔が一気に紅潮していくのが分かった。監督に悪いことをしたなと思った。怒鳴られた方がいいのにと思った。そのときの監督は、なぜかやさしい目をしていた。なのに恐くてたまらなかった。

あとから、本田監督はなぜ恐い人だったのだろうかと考えることがあった。挨拶の声が小さかったときには思い切り怒られたし、間違ったことをすれば思い切り叱られた。しかし、それが理由ではないように思えた。時間が過ぎてから分かることって結構あるものだ。監督が言っていたことは、そういうことだったのか。監督が叫んでいたのは、こういう理由だったのか・・・。監督は正しいから恐かったのであった。

大学時代の私は、レギュラーではなかったし、神宮にも行けなかった。でも、本田監督から、かけがえのない感動をいっぱい授かった。そんな感動体験があったからこそ、今でもユニフォームを着つづけているのであろう。そして私は、卒業してから13年目の夏に、高校野球部の監督として甲子園出場を果たすことになる。プレイボール直前、甲子園の公衆電話から、本田監督に電話を入れた。「今から甲子園で戦ってきます」。その声がふるえた。

「監督のおかげで、ここまでたどり着きました。すばらしい野球を教えていただき、ありがとうございました」。そう伝えようとした。でも涙で言えなかった。だから、その気持ちをウイニングボールに託して届けようと考えた。しかし校歌を流すことはできなかった。


六.遺されたもの

大学の先輩から、本田監督が入院したという連絡をもらった。私はすぐ飛行機に乗り、北海道へと急いだ。監督は札幌市内の病院に入っていた。呼吸を助ける器具を装着しており、大変に苦しそうだった。私は監督に「伝えられなかった言葉」が、ずっと心の奥にひっかかっていた。

監督の耳元で私は叫んだ。「朝西です。自分は大学を出てから20年たった今でも野球を続けています。正しい野球を教えていただき、ありがとうございました。自分は、どんなことがあっても、監督に教えていただいた野球をやりとおします」。

監督は、上体を起こしながら、何か言おうとした。器具をつけているので、声は聞こえてこなかったが、監督が何を言おうとしているのか、その唇の動きからはっきりと読み取ることができた。「が・ん・ば・れ・よ」。

ある人から「朝西監督は、何のために野球をしているの?」と聞かれたことがあった。「大学のときの監督を喜ばせたいから・・・」。とっさにそう答えていた。そうなのかもしれない。私は、監督にまだ甲子園のウイニングボールを渡していなかった。

「つぎの夏は、がんばって、また甲子園に行きたいと思います」。そう宣言した。「監督の野球の灯は、朝西が絶やすことなく伝えていくのでご安心ください」。監督は握っていた手を、ぎゅっと握り返してきた。今でも監督は何かと闘っているのだ。そんな監督の必死な姿を見て、自分も戦いつづけていくことを決意した。

 私は本田監督から、野球に対して誠実に取り組むことはもちろんのこと、学問や日常生活など野球以外のことについても常に全力を傾けることの大切さを教えていただいた。「たとえ練習試合でもベストを尽くすというのが私のやり方で、それが礼儀だと思っています」。この本田監督の言葉が、その教えを語り尽くしているような気さえする。また、本田監督が目を患っていたこともあり、私自身、自分の思いを言葉に表す習慣が身につき、思考を論理的に組み立てる術が自然と備わったように思う。

私は、指導者という立場になってから、つらいことや困難なことに直面すると、決まって炎天下のグラウンドのベンチに座る本田監督の姿を思い出し、幾度となく勇気を授かるようになった。

本田監督が全盲という障害のなかで、足かけ9年もの長い間、大学野球部の監督を勤め上げたという事実を知る人は少ない。しかしそれは、野球界に残るさまざまな大記録に匹敵するほどの、輝かしい記録だと私は信じている。その崇高な出来事を、これからも語り続けていくつもりだ。

本田監督の夢は「卒業生を集めてノックをすること」だったという。【おわり】

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