相撲歴史+あれこれNAVI

 

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横綱のまわし 

 

神社の注連縄(しめなわ)をヒントにしたものです。

出雲大社  拝殿  注連縄

 

おいしいコーヒーでも

飲みながらごゆっくり

ご覧ください。

 

  

sumou_caffe

 

  

相撲のあれこれ

郷土の相撲の史跡を

訪ねます。

 

 相撲茶屋 店主

              野見宿禰と当麻蹶速

 相撲は埴輪(はにわ)の時代から始まっていた

相撲は今から約1,300年前の第11代垂仁天皇の垂仁7年7月7日(紀元前23年)に行われた野見宿禰vs当麻蹴速の一戦が相撲の起源といわれている。当麻蹴速は大和の国当麻村(現在の奈良県葛城市)に住む勇士で蹴りの達人。向かうところ敵なしとの噂を耳にした垂仁天皇が「誰か戦える者はいないか」と臣下に尋ねたところ、出雲の国の勇士・ 野見宿禰の名があがり早速呼び出して試合をさせた。この天覧相撲は壮絶な蹴りあいとなり 野見宿禰が当麻蹴速の肋骨と腰骨を折って蹴り殺してしまった。野見宿禰は当麻蹴速の領地を与えられ朝廷に仕え、後に埴輪を発案し代々天皇の葬儀を司ったことでも知られる人物となった。又、後の菅原道真や毛利元就はこの野見宿禰の子孫と言われている。   

 

 

 

 

 

 

 

 

相撲節会

 

 

 

野見宿禰神社

相撲の神と言われる

野見宿禰を祀る神社

 

 

滋賀県野洲町の

御神神社の

力士と行事の木像

 

天平6年(734年)7月7日聖武天皇が野見宿禰と当麻蹴速の試合の故事に因み七夕の日、全国の相撲人を集め宮中紫宸殿の庭で相撲を取らせた『続日本紀』・これが天覧相撲の最初の記録となり この頃が 相撲節会(すまいのせちえ)の儀式の始まりとされています。

 

 

 

日本書紀に登場する

日本最古の相撲取り

野見宿禰と当麻蹶速 

當麻蹶速之塚

 

 

 

福島県

 

  

泉崎村・原山古墳

(福島・4号国道沿い)

 

泉崎村・原山古墳

全体復元図

 

 

 今城塚古墳・力士埴輪

 

 

     

  

泉崎村資料館

 

 泉崎村・原山古墳

最古の力士像埴輪

 

 

 富岡八幡宮(東京)

江戸勧進相撲発祥の地

貞享元年(1684)幕府より春と秋の2場所の勧進相撲が許されました。以降約100年間にわたって本場所が境内にておこなわれ、その間に定期興行制や番付制が確立されました。

 

回向院境内の相撲場

(明治30年頃)

 

回 向 院(東京)

天明元年(1781)から文政年間に至るまで勧進相撲興行が行われ、明治41年の旧両国国技館が完成するまでの76年間、「回向院相撲の時代」が続きました

 

大関力士碑(回向院)

 

横綱力士碑(回向院)

明治33年歴代横綱を顕彰す る碑が建立されました。この碑には初代明石志賀之助から67代武蔵丸関までの四股名が刻まれています。

 

回向院には鼠小僧

お墓があります。

 

 

 

小野川喜三郎

寛政元年(1789年)11月には小野川喜三朗と谷風梶乃助に横綱の免許がおり これが実質的に現在の横綱制度の始まりとされています。

谷風梶乃助

寛政3年(1791年)6月 江戸城吹上で11代将軍徳川家斉の上覧相撲の際谷風が弓を賜り、これを手に「敬い奉げて四方に振り回し」舞ってみせたのが現在の弓取式の始まりとされています。

行司の最高位

−「松翁」−

第20代木村庄之助

 

雷電

 

 

 

  

成田街道「臼井宿」

甘酒茶屋「天狗」

雷電の妻「おはん」は

「天狗」の

看板娘でした

   

 

  表米神社相撲桟敷

 

兵庫県朝来市和田山町

中央の土俵を囲んで半円形に六段の石積。土俵を越えた正面には舞台、,歌舞伎の見物にも供ぜられたものと考えられる。江戸末期並びに明治年間の座席割図が各一枚残っていて、実態を立証されている。この種の半円形石積段型桟敷は、長門市赤崎山の楽桟敷を除いて知られた例がなく、全国的に見ても大変貴重。

 

 

相撲 勧進相撲

 

江戸時代には、相撲は勧進相撲が京都や大阪、江戸などで興行として盛んに行われました。本来 勧進相撲とは神社仏閣の再建や修繕費用が必要な時、相撲の興行を行い興行収益の一部をそれに充てる事を目的にして行われているものを言いました。当時、各地に相撲を生業(なりわい)とする いわゆる職業的な力士集団があり、勧進相撲に参加していました。この勧進相撲がその後 現代の大相撲へと発展していくのです。

 

 

四角い土俵 

相撲好きの南部の殿様は四角い土俵にこだわり、それが昭和の時代まで残った。盛岡藩ではこの勧進相撲が「四角い土俵」で行われました。

   

 

江戸初期の相撲は人が円陣をつくってその中で相撲をとっていた。相手を倒すか又は人垣の中に押し込んだ方が勝ちであった。やがて四方に柱を建て、縄を張り土を詰めた俵をおくようになった。しかし、これでは力士が俵に足をとられて危ないというので俵を土中に埋めるようになった。始めはこの俵そのものをを土俵と呼んでいたがやがて勝負する全体を土俵と呼ぶようになった。

 

 釜石製鐵所相撲道場

四角い土俵

岩手で古くから受け継がれてきた南部相撲は「四角い土俵」でした。かつて釜石にあったころの写真。

 

 

高杉晋作(中央)の右に

力士隊を率いた伊藤博文 

 


  

元治元年(1864年)12月 禁門の変で敗れた長州では藩論が尊王攘夷より公武合体が主流を占めてきた。これに危機感を感じた高杉晋作は功山寺で再度挙兵、この時呼応したのは伊藤俊輔(博文)の率いる力士隊約30人と、石川小五郎の遊撃隊約50人だけであったが 後に奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年3月には俗論派を排斥して 高杉晋作、伊藤博文等の尊王攘夷派が勝利し藩の実権を握る。これを機に長州藩は倒幕に向けて一気に動き出した。坂本竜馬仲介の 薩長同盟、大政奉還、鳥羽伏見の戦いを経て慶応4年4月11日江戸城無血開城、江戸時代が終焉した。これにより 力士を抱えていた大名が崩壊し力士達の環境も変わって行く事になった。

 

明治4年 維新政府により裸体禁止令や相撲禁止の議論が出たが御自身自らも相撲をとられた明治天皇及び伊藤博文(伊藤俊輔達の)力により難を逃れる事になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

山形県天童市の八幡神社

に残る奉納女相撲の絵馬

山形は明治〜戦前は

女相撲が盛んだった

 

 

昭和初期の女横綱

遠江灘

 旧両国国技館内

右奥が貴賓席

 旧両国国技館(昭和2年頃)

進駐軍により接収されて

いたが解除後は日大講堂

として使われた

 

相撲写真資料館

 

相撲写真資料館

昭和4年から67年間もの間、相撲協会の専属を務めた写真館

 

写真館の近くには

吉良邸跡もあります

両国駅付近の歩道には

いたるところに力士像

があります

 

レトロモダンJR両国駅

JR両国駅改札付近

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

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